*観る側が自分の感性で形創るもの・・

観る側が自分の感性で形創るヌード感

作品はいつも不確実で未完成なもの、観る者が自身の感性で形創るもの、だから、例え一枚の画像であっても、”無数の作品”になっている。

見る人が自分の体験を通して作品を完成させます。

観る側が自分の感性で形創るヌード感

観るという行為が、作品を完成させる

――身体表現と感性の往復運動について――

作品は、作者の手を離れた瞬間に完成するのではない。
とりわけ写真、とりわけ身体を写した写真においては、シャッターが切られた時点では、まだ半分にすぎない。残りの半分は、観る者の側に委ねられている。

私たちは長いあいだ、「作品とは何か」「作者の意図とは何か」を問い続けてきた。美術史は、天才的な個人の創造性を中心に編まれ、批評はしばしば「正しい読み」を提示しようとしてきた。しかし二十世紀後半以降、その構図は大きく揺らぎ始める。ロラン・バルトが「作者の死」を語り、ミシェル・フーコーが「作者とは何か」を問い直したとき、作品の重心は、静かに観る側へと移動した。

写真は、その変化を最も鋭敏に体現するメディアである。
なぜなら写真は、描かれた線や塗られた色ではなく、「そこにあったもの」の痕跡として現れるからだ。見る者は常に、写っているものの背後に「写されなかった時間」や「写されなかった選択」を想像せずにはいられない。写真は説明しない。沈黙する。だからこそ、観る者の感性が介入する余地が生まれる。

とりわけヌードという表現において、その傾向は顕著になる。
身体は、誰にとっても最も身近でありながら、最も解釈の分かれる対象だ。歴史的に見れば、ヌードは理想化され、象徴化され、しばしば「見る側の欲望」に奉仕してきた。だが現代において、身体はもはや単一の意味を背負うことができない。若さ、美しさ、性別、健康、役割――それらはすべて流動化し、観る者の立場によって異なる像を結ぶ。

ここで重要なのは、作品が「意味を与える」のではなく、
意味が立ち上がる場を用意するという考え方である。
写真が提示するのは、完成されたメッセージではない。むしろ、解釈が始まる前の、わずかな震えのようなものだ。観る者は、その震えに自分の経験、記憶、価値観を重ね合わせ、初めて像を結晶させる。

観るという行為は、受動的ではない。
それは選択であり、構築であり、ときに告白でもある。
同じ写真を前にして、ある者は解放を感じ、ある者は不安を覚え、ある者は何も感じないかもしれない。その差異こそが、作品が「生きている」証拠である。

写真家の役割は、ここで決定的に変わる。
すべてを語ること、すべてを統御することから、一歩退くこと。
演出しすぎず、説明しすぎず、余白を残すこと。
その余白は、怠慢ではない。観る者への信頼である。

私は、ポーズを止めない身体に魅力を感じる。
完成された形ではなく、形になろうとする途中の揺らぎ。
その不安定さは、観る者の感性を呼び覚ます。
「これは何なのか」と問う前に、「自分は何を感じたのか」と問い返す余地を残すからだ。

作品が観る者によって形づくられるということは、
責任が分散されるということでもある。
見ることは、無垢ではない。
そこには欲望も偏見も、過去の記憶も入り込む。
だからこそ、観るという行為は、常に自己を映し返す。

最終的に、作品とは固定された物体ではなく、
作者・作品・観る者のあいだに一時的に立ち上がる関係性なのだろう。
その関係は、見るたびに変わり、見る人ごとに異なる。

観る側が自分の感性で形創るもの――
それは作品の不完全さではない。
むしろ、開かれているということ、
そして、まだ終わっていないということの証なのだ。

観る側が自分の感性で形創るヌード感

観る側が自分の感性で形創るヌード感
観る側が自分の感性で形創るヌード感
観る側が自分の感性で形創るヌード感
観る側が自分の感性で形創るヌード感

観る側が自分の感性で形創るヌード感
観る側が自分の感性で形創るヌード感
観る側が自分の感性で形創るヌード感
観る側が自分の感性で形創るヌード感
観る側が自分の感性で形創るヌード感
観る側が自分の感性で形創るヌード感