Artist Model Tef – 女性ヌードという表現|見ること・見られることのあいだ

少年から妖艶な蝶にまで・・変貌するモデル・Tef

初対面での・・少年のようなあどけない笑顔は印象的だ。 最初の撮影では、何となくぎくしゃくしたような、息の合わない写真家とモデルであったが、2回目の撮影からは、見違えるような変貌ぶりを目の当たりにすることとなる(・・そんな予感があったから、2回目の撮影を依頼したのだけれど)。 

僕の感覚で言うのは恐縮だが、このモデルはエッチな体してるな・・と感じた。 これまで、たくさんのモデルを撮ってきたが、”エッチな体”と感じたことは初めてだ。 このことは、1回目の撮影で感じたことだが、2回目ではそれが全開になった。 その図が上下の画像です。 

負け組、勝ち組というような言い方は好きではないが、人生に勝ち負けがあるなら、この人は確実に”勝ち組”なのだろう。 地位とか名誉とかお金に関係なく、己の人生を肯定的に捉えられるなら、その人は勝ち組に違いない。 上の画像を見れば、”その人なり”が伝わってくる。 写真というのは、そういうところをしっかり捉えるんです。

――見ること・見られることのあいだ

女性ヌードは、美術史の中で最も古く、同時に最も不安定な主題である。それは常に「美」として語られてきたが、その背後には必ず、見る者と見られる者の非対称な関係が潜んでいる。女性ヌードをめぐる問いは、単なる造形や官能の問題ではない。それは、視線、権力、身体の所有をめぐる、きわめて現代的な問題系でもある。

古代のヴィーナス像からルネサンス絵画に至るまで、女性ヌードは理想化された身体として表象されてきた。均整の取れたプロポーション、滑らかな肌、永遠の若さ。これらは普遍的な美の象徴とされてきたが、同時に、それらの多くが男性作家によって、男性鑑賞者を暗黙の前提として制作されてきたことは見過ごせない。フェミニズム批評が明らかにしてきた「男性の視線(male gaze)」とは、女性ヌードが置かれてきた構造そのものを言語化した概念である。

写真というメディアが登場したとき、この構造はより露骨な形をとるようになる。絵画が作者の手を介した時間的蓄積の産物であるのに対し、写真は他者の身体を瞬時に固定する装置である。シャッターを切るという行為は、現実の流れの中から特定の瞬間を奪い取り、イメージとして保存する行為だ。その意味で、ヌード写真は常に、記録と支配のあいだに位置している。

しかし、撮影の現場に立つとき、理論としての「視線」はしばしば無力になる。目の前にある身体は、観念的なヌードではなく、呼吸し、緊張し、時にためらいを見せる生身の存在だからだ。モデルが衣服を脱ぐ瞬間に現れるのは、性的対象としての身体以前の、脆く、同時に強靭な人間の身体である。その場において、写真家は「見る者」であると同時に、「見られている者」でもある。視線は一方通行ではなく、常に往復している。

フェミニズム以降のヌード表現は、この往復運動を可視化しようとしてきた。視線を正面から返す女性、ポーズを自ら選び取る女性、あるいは年齢や傷を隠さない身体。それらは、従来の「見られるだけの身体」という位置づけを拒否し、主体としての身体を画面に立ち上げる。女性ヌードは、もはや沈黙する対象ではなく、語る存在となる。

特に写真において、年齢を重ねた女性のヌードは重要な意味を持つ。そこには理想化された美ではなく、時間の痕跡が刻まれている。しわやたるみ、肌の変化は、欠落ではなく、生きてきた証拠である。写真は時間を止めるメディアだが、成熟した身体は、過去と現在を同時に内包し、時間の不可逆性を画面に滲ませる。見る者は、その身体を通して、自身の老いと向き合わざるを得なくなる。

「見ること」と「見られること」のあいだに成立する関係性こそが、女性ヌードという表現の核心である。そこでは、撮る者と撮られる者、鑑賞者と被写体という二項対立は、容易に崩れる。写真家が身体を支配しようとすれば、イメージは即座に空虚な消費物へと堕する。逆に、身体が自ら現れてくるのを待つとき、ヌードは対話の場となる。

女性ヌードをめぐる議論は、しばしば「是か非か」という単純な問いに回収されがちだ。しかし重要なのは、ヌードを排除することでも、無批判に肯定することでもない。その表現が、どのような関係性のもとで成立しているのかを問い続けることである。視線の非対称性を自覚し、それを引き受けた上でなお、身体を記録することは可能なのか。この問いに対する答えは、一つではない。

女性ヌードという表現は、完成された形式ではない。それは、見ることと見られることのあいだで、常に揺れ続ける実践である。だからこそ、時代が変わるたびに、その意味は更新され続ける。私たちは女性ヌードを通して、他者の身体を見ると同時に、自らの視線のあり方を見つめ返している。その往復運動の中にこそ、今日におけるヌード表現の可能性がある。

その日のファースト・シュート

nude art Tetsuro Higashi photography

女性ヌードという表現

――見ること・見られることのあいだで(男性写真家として)

私は男性写真家である。その事実は、女性ヌードを撮るとき、常に私の前に立ちはだかる。シャッターを切る以前に、私は「見る側」に位置づけられてしまうからだ。この立場は選び取ったものではない。しかし、逃れることもできない。女性ヌードを撮るという行為は、私にとって、表現であると同時に、自己の視線を疑い続ける実践でもある。

美術史を振り返れば、女性ヌードの多くは男性によって描かれ、撮られてきた。そこでは女性の身体は、美の象徴であり、欲望の対象であり、しばしば沈黙する存在として配置されてきた。フェミニズム批評が明らかにしてきた「男性の視線(male gaze)」の構造は、私自身の制作からも決して無縁ではない。むしろ、私はその構造の内側にいる。

写真というメディアを用いるとき、その問題はより切実になる。写真は、他者の身体を瞬時に固定し、私の所有するイメージへと変換する。シャッターを切るという行為は、対象を「記録する」ことと、「奪う」ことの境界にある。私はその境界線を、いつも踏み越えてしまうのではないかという不安を抱えている。

撮影の現場に立つと、理論はすぐに無効化される。目の前にいるのは、美術史上の「女性ヌード」ではなく、呼吸し、体温を持ち、ためらいを含んだ一人の人間である。衣服を脱ぐという行為は、決して抽象的ではない。そこには緊張があり、覚悟があり、ときに脆さがある。その瞬間、私は撮る者であると同時に、強く見返されている存在でもある。

私はできる限り、ポーズを指示しない。身体が自ら動き、止まり、また動き出す、その流れを遮らないようにする。それは倫理的配慮である以前に、写真家としての技術的選択でもある。指示されたポーズから生まれる身体は、どうしても観念的なヌードへと回収されてしまうからだ。私が待っているのは、「見せる身体」ではなく、「現れてくる身体」である。

それでも、私の視線が無垢であるなどとは思っていない。男性として社会化されてきた私の身体には、すでに無数のイメージが刷り込まれている。ヌードを見るときの欲望、評価、比較。それらを完全に消去することは不可能だ。だから私は、それらを否定するのではなく、意識の表面に浮かび上がらせたまま撮るしかないと考えている。

年齢を重ねた女性のヌードを撮ることが多いのは、そのためかもしれない。そこには、若さの消費という構造が入り込む余地が少ない。しわやたるみ、皮膚の変化は、私の視線を容易に裏切る。身体はもはや「理想」を演じない。その代わりに、時間そのものを引き受けた存在として、そこにある。私はその前で、撮る者としての優位性を失う。

写真は時間を止めるメディアだが、成熟した身体は、止められない時間を画面に持ち込む。そこには過去があり、これから先の時間も含まれている。その厚みの前で、私はただシャッターを切らされている、という感覚に近い。撮っているのは私だが、主導権は私にない。

それでもなお、「男性が女性ヌードを撮ることは許されるのか」という問いは残る。この問いに、私は明確な答えを持たない。重要なのは、許されるかどうかを外部に委ねることではなく、その問いを抱えたまま制作を続けられるかどうかだと思っている。問いを手放した瞬間、ヌードはただの消費物になる。

女性ヌードという表現は、私にとって快楽の対象ではなく、常に不安を伴う場である。見ることと見られることのあいだで、私の視線は揺れ続ける。その揺れを消そうとは思わない。むしろ、その揺れこそが、私が写真を撮り続ける理由なのかもしれない。

私は女性ヌードを通して、女性の身体を理解しようとしているのではない。私が見つめているのは、自分自身の視線であり、その限界である。女性ヌードは、その限界を静かに、しかし確実に示し続ける。だから私は、今日もまた、その前に立ち、ためらいながらシャッターを切る。

A figure morphing into sensual allure