
「100億ドルではなく、35億ドルの日本を選びます」――モンゴル政府、歴史的決断に米中が騒然!二千年前の“東の魂



Artist Model Yu covered in powder
女性ヌードを顔も体も全身、小麦粉で覆う――この行為は、単なる奇抜さや視覚的ショックを狙ったものではない。むしろそれは、「裸体とは何か」「人体表現とはどこまで拡張されうるのか」という、美術史が繰り返し問い続けてきた命題への、きわめて静かな、しかし根源的な再提起である。
小麦粉は、私たちにとって極めて日常的な物質だ。食卓にあり、生活の匂いを帯び、祝祭でも貧困でも等しく用いられてきた。人体をこの粉で覆うことで、皮膚の色彩、年齢、民族性、個性といった「意味を帯びすぎた情報」は一時的に消去される。そこに残るのは、形態としての人体、量感、起伏、重力に抗う曲線だけである。これは裸体を“脱・官能化”する試みであると同時に、逆説的に、より深い官能性を呼び起こす行為でもある。
この作風は、美術史的に見れば、人体を素材として再定義してきた数々の前例と静かに共鳴する。たとえば、アントロポメトリーで知られるイヴ・クラインは、女性の身体を「描く主体」から「痕跡を残す媒体」へと変換した。一方、マン・レイは写真において、身体を現実から切り離し、異化された形態として提示した。小麦粉で覆われたヌードもまた、これらの系譜に連なりながら、独自の地点に立っている。
特筆すべきは、この表現が「彫刻的」である点だ。粉に覆われた身体は、呼吸や微細な動きによって粉を落とし、ひび割れ、剥離する。その瞬間、人体は完成された像ではなく、「生成と崩壊の過程」として立ち現れる。これは古典彫刻の永遠性とは対極にあり、むしろ無常観に近い。粉はやがて落ち、形は失われる。その儚さこそが、この試みの核心である。
また、この作風は観る者に倫理的・美学的な問いも突きつける。私たちは裸体を「見る」ことに慣れすぎてはいないか。性的文脈、消費の文脈、評価の文脈に絡め取られた視線を、一度リセットする必要があるのではないか――小麦粉という異物は、そのための“視覚的ノイズ”として機能する。観る者は戸惑い、距離を取り、やがて形そのものと向き合わざるを得なくなる。
既成概念を打ち破るとは、過激な否定ではない。むしろ、あまりに当たり前になった見方を、そっとずらすことだ。この作風は、女性ヌードを尊厳ある造形として再び私たちの前に置き直す。顔も体も覆われたその姿は、匿名でありながら、どこまでも人間的である。そこにあるのは挑発ではなく、問いであり、沈黙であり、そして新たな人体表現への静かな扉なのである。

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既成観念に”疑問”を呈した作品


この写真を見てください
女性にペニスがついているのか
男性にバストがあるのか
いろいろと考え込んでしまいます。
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海外での初めての展示会へ出て
そこで知り合ったフォトグラファーの作品です。
(帰りに、この作品のB2判をもらいましたが)
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なんだこれは!グロテスクな・・
と、思われる方には・・
「それはあなたの感性・感覚がグロテスクだからです」
と、私は伝えます。
・・ところで、私の感覚は「なんて美しいのだろう」
と、見惚れてしまいました。
:
この写真は
その人が、アート感覚を持ち合わせるかどうか?
の「踏み絵」なんでしょうね。









裸婦を撮る・・
デジタルカメラが出始めの頃・・
絵画をネットに載せるためにデジタルカメラを買ったのですが、散歩しながら風景を撮り、人を撮るようになりました。
こうして見ると、人を撮ることは僕にとっては必然なのだと思われます。
コンデジで撮るヌード


ここに載せてる画像は、顔が見えないようにトリミングしたり、ぼかしたりしてますが、この頃、ずいぶん言われましたよ・・「君の写真は下手だ」って。 それで、僕も下手なのだろうと思いましたが、どこがどのように下手なのか分からずに、撮りたいように撮ってました。 当時は、他人が撮った写真には興味がなかったので、他人と比べることもなかったように思います。 まぁ、上手に撮ろうとも思ってませんでしたが。
知り合いの女性に、写真を撮りたいから撮らせてください・・と、頼み込んでこうして撮ってました。 先頭に載せた写真は良いと思いますが、他はイマイチですね。
コンパクトデジカメでしたから、設定などはほとんど知らずに、写ればいいや・・みたいな調子で撮ってましたね。


この撮影は、10年以上前ですが、昨日のことのように覚えてます。
僕のために、ヌードになってくれる女性が目の前にいるわけですから、緊張しました。 好きなアングルで好きなようにしか撮りようはなかったのですが、いろいろと気遣いました・・目の前にいる女性が気を悪くしないように”立ち回り会話する”ことです。

こうして、過去の画像を見ていると、現在は緻密な撮影はしてますが、”作品“としてよくなってきているか?というと、微妙ですね。 考えずに夢中になって撮っているときの方が作品としては説得力があります。


元々、僕は絵描きなので、絵を撮った画像を載せたいと思いますが、どう頑張っても絵を納得のいくように撮れないので、自分の絵を載せることはほとんどしません。
絵を撮ることの難しさは、写真とは違い、絵には僅かだが絵具には厚み(凹凸)があり、タッチなどによる質感がある。 写真では、それらを撮り込むことは不可能であり、何かを犠牲にしないといけない・・それに、(原色の)色合いも出ません。 それにもまして難しいのはライティングなのです。 反射光が入らないように、画面全体に均一に光をあてないといけない。 そのおかげで、その後の人物撮影はずいぶん上手になりました。
東京に来られた知り合いのイタリア人の画家が、僕に「絵のとり方を教えてくれないか?」と聞かれましたが、色合いを優先すれば質感は撮れないし、質感やタッチを大切にすれば、乱反射して色合いは飛んでしまう・・と、説明しました。
例えば、写真で見るゴッホは、その道のプロの写真家が撮っているのでしょうが、全く別物でゴッホの素晴らしさは写真では分かりません。


そういう意味で、写真とは”真実”を撮ると思っている人も多いが、それは全くの見当違いであることが分る。 その意味では、写真は安易に記録していることに過ぎないので、”真実・リアリティー”は絵画には遠く及びません。
逆に、写真には写真でしか撮れない図があり、そこに無限の面白さもあるわけです。
それともう一つ、絵画は画家が制作していくものであり、“作り物”であると(普通の人たちが)思うが、写真は少なくとも”物理的な真実は撮っているわけだから、説得力はあるはずなのです。
春画などは別格として、ポルノが絵画であれば、全く需要はないと思います。



こうなると、画質に問題が生じてきますが、それはそれで、いい味出しているように思います。

クロッキー会へ行った時に知り合いになったモデルさんを撮ってます。
このページの載せてる画像に関しては、ライティングは全くしてませんから、無理がなく自然な感じがします。 もっとも、ライティングなどの機材も持ってませんでしたが。






ライティングもしてませんし、光の入り方なども考えてませんでしたが、いい感じに撮れてます。
この画像を見ると分かるのですが、僕がこの当時、下手だと言われていた理由・・四方の手足が切れてしまっていることがその理由ですね。 なるほどですね、でも、今でもこうして切ってますが・・


これらの画像を見ていると、撮影したことが遠い昔のようにも思えるし、つい先日のことのようにも思える。 この画像はとても気に入ってますが、私自身の趣味趣向というものは変わりませんね。
