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幻想と不在の彼方に —— 女性像を語るという行為
文学において、女性はしばしば語られる存在でありながら、実体としてはそこにいない。特にメタフィクションの領域において、この傾向は一層顕著だ。語りの構造そのものが「現実」の足場を崩し、物語の枠組みを問い直すとき、女性像はその内部で「幻想」として漂い、「不在」として定着する。
スペインの現代作家、たとえばエンリケ・ビラ=マタスの作品を読むと、女性はしばしば「語り手の物語欲」を駆動させる原動力であるが、決して物語の中にしっかりと定住しない。彼女たちは現れては消え、あるいは最初から姿を見せない。彼らが求めるのは“実在の彼女”ではなく、“記憶の中の彼女”や、“書かれた彼女”なのである。
このような女性像は、欲望の対象としてではなく、むしろ「書くこと」の欲望そのものの象徴として立ち現れる。つまり、彼女は“愛されるため”ではなく、“書かれるため”に存在している。彼女を探し、彼女について書くことそのものが、物語の推進力であり、またその不在を埋める行為でもある。
こうした構造の中で、女性とはしばしば「欠如としての存在」である。語り手が彼女の存在を欲するほど、彼女は遠ざかり、輪郭を失う。彼女は言葉の中にしか存在せず、その言葉ですら、すぐに自己崩壊を始める。そこには、「現実の女性」ではなく、「男性作家の内的構造が作り上げた女性」という、二重の虚構がある。
問題は、このような語りが女性を「他者」や「記号」に押し込めてしまう危険性にある。幻想としての女性像は美しく、複雑で、そしてしばしば魅力的に描かれるが、それは実在の女性とは異なる何かである。女性がそのように描かれれば描かれるほど、語り手の自己投影と構造上の独白が濃くなる。
しかし一方で、その「不在」を描こうとすること自体が、ある誠実さでもあるのかもしれない。語り手は、彼女を理解できない、触れられない、完全に言葉で捉えることができないと、どこかで自覚している。だからこそ、幻想でしか描けない。その「描けなさ」を描こうとする試みの中に、文学としての真摯さが宿る。
物語の外にある女性たちが、この語りにどう応答するのか。あるいは、応答しないまま立ち去っていくのか。それもまた、メタフィクション的な語りにおける「空白」の力だ。その空白は、時に語り手自身を語り直し、言葉の権力構造を揺るがす可能性を持っている。
幻想としての彼女、不在としての彼女。そのどちらにも還元されない「誰か」が、ページの向こうに確かにいると信じながら、語り手は語り続ける。書くこととは、そこにいない「あなた」への呼びかけなのだから。

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