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この画像が、彼女の「初めてのヌード」である。 それまで、モデルをしたことがなかったと思うので、初めての撮影がヌードであったことになる。 その当時は、私もフォトグラファーとしての実績もなく、FBで繋がっているという”信頼関係”だけで撮影に臨んだことになる。 これから1年後、私が撮った彼女の画像を見つけた世界的に著名なキュレイターが、大使館を通して私に展示会参加のオファーをしてくることになるのだが。 Mode : Kimiko Nakahara

*International photo expo 2015 / 26 February ~ 13 March
………Piramid Sanat Feridiye Cad. N.23, 34437 Taksim, Istanbul, Turkey
Bedri Baykam – Erden Cantürk – Philippe Deutsch – Koray Erkaya
Damien Guillaume – Tetsuro Higashi – Hugh Holland
Uwe Ommer -Arto Pazat
Curator: Cüneyt AYRAL
February 26–March 29, 2015
http://www.piramidsanat.com/en/exhibitions/totally-naked

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上の画像も *International photo expo 2015 に参加した際に展示した画像。 上記の展示者の名前を見ても分かるように、世界的に知られる写真家の名前が並ぶ。 私は、この展示会への参加で、無名な写真家から世界の頂点の展示会へ参加したことになるのだが、それもこれも、彼女との出会いがあったからこそであり、私にとってはもちろん、彼女にとってもこの上なく貴重な”出会い”であったとことになる。
このイスタンブールでの展示会での出展作品は、6枚であったが、そのうちの4枚が彼女の画像であり、その意味でも、彼女のモデルとしての貢献度は計り知れない。

「初めてのヌード」 model : Kimiko Nakahara ・・・ 日本のフォト・モデル。 このカテゴリーで載せる画像はすべて彼女の創るポージングであり、写真家 (Tetsuro Higashi) がどのように画像に収めたのか、その記録である。

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撮影の約束ができ、スタジオでの最初のセッションが近づくにつれ、僕の頭にはさまざまな思いが巡った。ヌードというジャンル自体がもたらす特別な空気感、それをどう表現すべきか、どんなアプローチを取るべきか。しかし、いざ彼女がスタジオに到着し、撮影を始める前に、僕が彼女に伝えたのは、たった二つのことだけだった。「カメラ目線にならないこと」と「たとえカメラを見ていなくても、カメラを意識しないこと」だ。これだけは、僕にとって重要だった。
撮影が始まり、彼女はその指示を忠実に守りながらポーズを取った。ヌードという形での表現は、非常に繊細でありながらも力強さを秘めている。カメラ目線にならないという条件は、彼女の自然な姿を引き出すためのものであり、カメラそのものを意識させないことで、彼女自身の内面から湧き出る感情や無意識的な動きが画面に映り込むことを意図していた。カメラの存在を忘れることで、彼女はまるで一人の時間を過ごすように、自由に振る舞い、内なる自己を解放することができたのだ。
この画像は、彼女がモデルを始めた初期のものではない。しかし、彼女はカメラ目線にはなっておらず、結果的に「媚び」が入ることもなかった。ここでいう「媚び」とは、観客やカメラマンに対して過剰な意識を払うことからくる不自然さであり、そういったものが一切含まれていないことに、僕は大いに満足している。この自然体であることこそが、彼女の本来の魅力を引き出すカギであり、それが写真という静止した瞬間の中にしっかりと収まっていることに、撮影者としての喜びを感じた。
彼女がヌードのモデルをすることを決めてから、何度もセッションを重ねる中で、僕たちの間にはある種の信頼関係が生まれた。その信頼が、カメラ越しに伝わり、彼女の動きや表情にも表れている。それは単なるモデルとカメラマンの関係を超えた、より深い人間同士の理解があるように感じられる。この信頼があるからこそ、彼女はカメラの存在を気にせず、自分の内面をそのまま表現することができたのだ。

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ポージングに関して、私のアプローチは非常にシンプルです。モデルであるKimiko Nakaharaに指示を出すことは一切ありません。私が行うのは、背景の用意やライティングの設置、衣装の選定といった撮影環境を整えることだけです。そして、撮影が始まれば、その瞬間からポージングはすべてモデルの感性に任せています。
撮影は常にスタジオで行われますが、私の役割はあくまで「環境を整えること」にとどまります。いざシャッターを切る時も、モデルの自然な動きを尊重するため、撮影の途中で「止めて」ポーズを修正することはありません。なぜなら、動きを止めてしまうと、その瞬間、ポーズは命を失い、ただの形だけの静止画になってしまうからです。たとえ多少ブレがあったとしても、その流れの中で捉えられる感性の一瞬こそが、作品に命を吹き込むと考えています。
私はポージングを細かく指示することが創作の本質を損なうと感じています。指示を受けたモデルは、自己の内に潜む感性を探求する必要がなくなり、ただ与えられた「形」を作るだけの存在になってしまいます。そして、モデルがその感性を形にして表現する「喜び」を奪うことにもつながるのです。そうした撮影は、できる限り避けたいと思っています。
私にとって、撮影の最終目標は「作品」を完成させることですが、その過程が非常に重要です。撮影の中で、モデル自身が持つ感性を引き出し、それが写真という形で表現される瞬間、その喜びをモデルと共に共有できることが理想です。私が目指すのは、写真家としての技術的な完成度だけでなく、被写体となるモデルが自身の魂を表現する場を提供し、その過程で生まれる作品の中に、双方の喜びが反映されることです。
この一枚の写真は、彼女がモデルとして成熟し、私たちの間に築かれた信頼が凝縮された結晶のような存在だ。モデルとしての彼女は、カメラを意識しながらも、それに媚びたり、飾ったりすることは一切ない。カメラ目線でもなく、視線をそらしているわけでもない。ただ、そこにあるのは彼女自身の真実であり、その瞬間をカメラという道具を通じて切り取った美しさだ。
この画像は、彼女がモデルとして初期の頃に撮影されたものではない。彼女がまだ経験が浅く、ポージングや表情に慣れていなかった時期とは異なり、今回の撮影では、彼女の内面的な成長がはっきりと映し出されている。初期の頃は、どうしてもカメラに対する意識が強く、カメラの向こうにある観客を意識したポーズが多かった。しかし、今では彼女自身の自然な姿勢がより一層強調され、作られた表情や動作が一切排除された状態になっている。

それが彼女の成長の証であり、モデルとしての新たなステージに突入した瞬間でもあるだろう。表情やポーズは、もはや一つの演技ではなく、彼女自身の内側から溢れ出る真実であり、それを引き出すことができたのは、私たちの間に深く根付いた信頼があったからこそだと感じる。
彼女がカメラに向かって「見せる」のではなく、ただ「存在する」ことに集中できるのは、撮影者とモデルの間に信頼があるからこそだ。その信頼があるからこそ、モデルとしての彼女はカメラの前で本来の自分をさらけ出すことができる。その過程を通じて、カメラを意識することなく、自己の内面を映し出すという行為が自然に行われるようになった。
また、カメラという道具自体が、ただの「記録」から「創造」へと進化する瞬間でもあった。レンズ越しに見る彼女の姿は、ただの写真として残るだけでなく、その瞬間の空気感や彼女の心の動きまでもが伝わってくる。このような一枚を撮影できることは、モデルの技量や表現力だけではなく、撮影者とモデルの間に築かれた信頼関係が深く関わっていると言えるだろう。
写真というものは、技術や構図、照明といった技術的な要素に依存する部分も多い。しかし、最終的には被写体と撮影者の間に生まれる無言の対話、その信頼関係こそが、本当に美しい写真を生み出す原動力となる。そしてこの写真は、まさにその信頼の賜物であり、彼女がモデルとして成長し、私たちの関係が深まった証拠でもある。
この一枚は、ただの写真ではない。彼女の成長、そして私たちの共同作業の集大成として、心に残る一瞬が切り取られているのだ。それは、時間が経過しても色褪せることなく、彼女が持つ真実の美しさを常に映し出し続けるだろう。

彼女には幼い頃からバレエの素養があり、そのおかげで体全体で感情や物語を表現することには非常に長けていた。バレエの動きの中で、体全体を使って感情を伝える技術は彼女に自然と備わっていたのだ。彼女の動きは優雅で繊細であり、音楽と共に流れるように動くその姿は、まるで感情そのものが踊っているかのようだった。体の柔軟性や強さ、そしてその統制力は、一朝一夕で身につくものではない。彼女の体は、長年のトレーニングによって培われたものであり、それが彼女の表現力を支えていた。
しかし、演技の経験となると話は少し異なってくる。バレエでは、体全体を使って物語を語る一方で、顔の表情に大きな焦点が当たることは少ない。もちろん、バレエの中でも顔の動きは重要な要素の一つであるが、それはあくまで全身の表現の一部に過ぎない。観客は主にダンサーの体全体の動きに目を向けているため、顔そのものの表情が演劇のように細かく求められることは少ないのだ。
彼女もその点については気づいていたのだろう。体で感情を表現することに慣れている彼女にとって、表情のみで感情を伝えることは少し難しいことだった。演技の世界では、顔の表情一つでキャラクターの感情や内面が伝わるべきだが、彼女はまだその経験が浅く、顔の筋肉をどう使えばいいのか、自分でも戸惑っているようだった。
「バレエの場合、顔も体の一部として扱われる。特に特別な表情を作る必要はなく、顔自体が体の流れに溶け込んでいる」というのが僕の解釈だった。彼女のバレエにおける表現の中では、顔は体の延長線上にあり、他の部位と同様に自然に動いていた。舞台上で観客が彼女の顔の表情に注目するというよりも、その全体的な動きと、その中に表れる微細な感情の変化に心を打たれるのだ。
とはいえ、演技の場面においては、そのアプローチは異なってくる。顔の表情だけで瞬時に感情を伝えることが求められるため、彼女にとってはそれが新たな挑戦となったのだろう。しかし、彼女のバレエで培った体全体での表現力があれば、顔の表情づくりも、時間をかけて習得することができるはずだと僕は確信していた。表現というものは、体のどの部分を使うにせよ、根本的な原理は同じだからだ。
彼女はその後も懸命に表情の練習を続け、徐々に顔の筋肉の動かし方を学んでいった。初めはぎこちない動きだったが、次第に自然な笑顔や悲しみの表情が顔に現れるようになった。体全体での表現と同様に、顔もまた感情を伝える一つの「道具」として彼女の中で統合されていったのだろう。
バレエの世界と演技の世界は異なる部分も多いが、どちらも「表現」という共通のテーマを持っている。彼女はその両者を融合させ、より豊かな表現者として成長していく姿を見て、僕はその変化を静かに見守りながらも、彼女の才能に改めて感心したのだった

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これはモデルの「初めてのヌード」撮影であったかもしれない。 データを調べれば分かるが、初期の作品であることは確かである。 私は○○フェチではないが、バストがしっかり写り込んだ画像が多い。 それにしても、背中側から撮った画像は極端に少ない。

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このブログ内での展示の難しさを感じている。 なぜなら、PCでの見え方とスマホでの見え方が全く異なるからだ。 たぶん、スマホでご覧になる方が多いと思うので、スマホで観やすいように展示している。

写真にはそれぞれに「自分の思い入れ」がある。 編集を終えた瞬間は「これぞ最高!」と思えても、一月後に見れば”ただの写真”になってしまうことも多い。この写真はどちらなのかな?
仕上げた瞬間は「オレは天才だ!」と思った画像です。 今じゃ、ただの写真になってしまったが、作品の価値を決めるのは自分じゃなく、第三者に任せるのが良いのでしょうね。 フランスに住むキュレーションをする者がどう見るのか?聞いてみたい。

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上の能面の画像は、私のベスト作品の一つであると確信している。 ただ、問題なのはフォーカスポイントで、近距離で撮っているので、能面に合っており、バストがぼやけていることが残念です。 じゃ、バストトップにフォーカスしたらもっと良い写真になったか?言えば、そうでもなさそうですね。 唯一の解決策は、F値を上げ、ハンドではなく三脚を使えば良かったのかな・・と思います(能面もバストも苦っきり写り込んだはず)。 ポージングを止めて、このような画像を撮れるかどうかは分かりませんが
初めてのヌードモデル 「ヘソを意識した撮影」