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女性の裸体を見たとき、「エロい」と感じる男性もいれば、「美しい」「造形的だ」「これは一つの表現だ」とアートとして見る男性もいる。しかし、この二つは必ずしも完全に対立するものではない。同じ裸体を見ても、見る人の中で何に注意が向くかによって、立ち上がってくる意味が変わるのである。
私自身、これまで女性の裸体を撮影してきた。その経験から感じるのは、裸体とは単なる「身体」ではなく、その人が生きてきた時間や感情、人生に対する意識までもが重なり得るものだということである。
20代の女性を撮影した際、その人には男性との性的な経験が少ないのではないか、と感じたことがある。しかし、それは本人から確認した事実ではなく、あくまで私自身の印象である。だからこそ、写真家として大切なのは、自分の解釈をモデル本人の真実として決めつけないことだと思う。写真家が感じ取ったものと、モデル自身が経験していることは、必ずしも一致しない。
精神的な問題を抱えていた女性を、本人のリハビリテーションを目的として撮影した経験もある。その撮影では、裸体を性的な対象として見ることよりも、本人が自分の身体と向き合い、カメラの前に立つという行為そのものに意味を感じていた。ただし、ここでも重要なのは、写真家が「この撮影が彼女を救った」と勝手に物語を完成させないことである。撮影の意味を最終的に決めるのは、モデル自身だからだ。
離婚後の女性を撮影したとき、私はそれが元夫への「リベンジ」という意味を含んでいるのではないかと想像したこともある。しかし、それも私自身の解釈にすぎない。同じように、失恋後に撮影を希望した女性についても、「傷を修復するためだったのではないか」と感じたことがある。けれども、モデルが実際に何を感じ、何を求めていたのかは、本人にしか分からない。
この経験から、私にとって「モデルへの敬意」とは、単に丁寧に接することだけではないと考えるようになった。それは、モデルを自分が作った物語の登場人物にしてしまわないことでもある。
モデルには、撮影者が想像する以上の理由があり、撮影者には見えていない人生がある。裸体を差し出してくれたからといって、その人の内面まで自由に解釈してよいわけではない。むしろ、分からない部分を「分からないまま残す」ことも、モデルに対する敬意なのだと思う。
撮影者とモデルの間には、常に力の差が生まれる可能性がある。カメラを持つ側には、何を撮るか、どこを切り取るか、どの写真を残すか、どのようなタイトルをつけるかを決める力がある。だからこそ、その力を一方的に行使するのではなく、モデル自身が何を表現したいのか、どこまで見せたいのか、どのように写りたいのかを尊重する必要がある。
私にとって裸体写真は、モデルを「撮る」ことから始まるが、モデルを「所有する」こととはまったく違う。写真として残った身体は、撮影者の作品になる。しかし、その身体そのものは最後までモデル自身のものである。
だから「エロ」と「アート」の境界を考えるとき、私はそこにもう一つ、「敬意」という軸を置きたい。
性的な魅力を感じること自体を否定する必要はない。身体の美しさに惹かれることも、写真を撮る原動力になり得る。しかし、その感覚だけでモデルを理解したつもりになった瞬間、写真はモデルのための表現ではなく、撮影者自身の欲望を投影するものになってしまう。
一方、モデルを一人の主体として見るならば、裸体は単なる性的対象ではなく、その人自身が選択して提示した身体として見えてくる。
私が目指したいのは、裸体を「性的なものから芸術へ変換する」ことではない。むしろ、性的な魅力も含めた一人の人間を、一人の人間として尊重しながら撮ることだ。
そのとき写真家に求められるのは、「この人はこういう人だ」と結論づけることではなく、「この人は私に何を見せてくれたのか」と問い続けることなのだと思う。
裸体を撮ることは、身体を写すこと以上に、他者の自己表現を一時的に預かる行為である。
だからこそ私は、シャッターを切る側の欲望だけではなく、シャッターの前に立つ人の意思と尊厳を、写真の中に残したいと思っている。

Erotic like seeing in the fog
























































