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裸体を撮影していると、もう一つ避けて通れない問題がある。それが、陰毛を残すか、除去するかという問題である。
陰毛が残っていれば、身体の一部が自然に隠れるため、性器そのものは写真の中で目立ちにくくなる。一方、陰毛を除去すると、身体の形態がより直接的に見えることがある。もちろん、写真家が意図していなくても、カメラはそこにあるものをそのまま記録する。
ここ二十年ほどの間に、陰毛を除去する女性が以前より増えたように私は感じてきた。一方で、最近では、あえて自然な状態をそのまま残すことを選ぶ女性も増えているように感じる。これは時代によって変化する身体観や美容観の一つなのだろう。
私自身は、写真家として性器そのものを撮りたいわけではない。そのため、撮影という観点だけから言えば、できれば陰毛は自然な状態で残しておいてほしい、と考えることがある。
しかし、ここでも「写真家の希望」と「モデル自身の選択」は別のものである。
モデルがどのような身体の状態で撮影されたいと思うかは、モデル自身が決めることである。写真家が「こちらのほうが芸術的だ」「こちらのほうが美しい」と決めつけるべきものではない。私が自然な状態を好むからといって、それをモデルに求めてよいということにはならない。
むしろ私にとって興味深いのは、同じ裸体であっても、陰毛の有無によって写真を見る側の意識が変わり得ることである。
隠されている部分があることで、見る人の想像が働くこともある。逆に、身体がより直接的に見えることで、性的な意味が強く感じられることもある。しかし、それは必ずしもモデルが「性的に見せたい」と考えていることを意味しない。
ここでも、写真家と見る側が勝手に意味を付け加えないことが重要なのだと思う。
私は、裸体を撮るとき、モデルの身体を「どう見せるか」だけではなく、「何を写さないか」についても考えたい。写真家には、レンズを向ける自由だけではなく、フレーミングによって見せ方を選択する責任もあるからである。
この経験から、私にとって「モデルへの敬意」とは、単に丁寧に接することだけではないと考えるようになった。それは、モデルを自分が作った物語の登場人物にしてしまわないことでもある。
モデルには、撮影者が想像する以上の理由があり、撮影者には見えていない人生がある。裸体を差し出してくれたからといって、その人の内面まで自由に解釈してよいわけではない。むしろ、分からない部分を「分からないまま残す」ことも、モデルに対する敬意なのだと思う。
私にとって裸体写真は、モデルを「撮る」ことから始まるが、モデルを「所有する」こととはまったく違う。写真として残った身体は、撮影者の作品になる。しかし、その身体そのものは最後までモデル自身のものである。
だから「エロ」と「アート」の境界を考えるとき、私はそこにもう一つ、「敬意」という軸を置きたい。

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Erotic 自主規制にも似た「日本の偏向報道」

