yacohthirtyfive & Hajime Yoshida

SNSなどを通して、気になるクリエイターがいる

彼ら、彼女らの作品には日ごろから目を通してる

そんな中に、yacohthirtyfive と名乗る方がいらっしゃる

彼が語るには「女性が凛としてる様を撮りたい」と・・

私は彼の作品のファンであり、同様な感覚を有する

多分に、作り笑顔のアイドル写真などに嫌気がさしてることもあるのだろう。

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もう一人、Hajime Yoshida さんという方の作品には

他のクリエイターとは一線を画する ”何か” があることに気付いている

最近の「バレリーナ」の作品からは、エドガー・ドガを想わせるが、

光の構成などからは、バロック期を代表する画家のひとりである

ヨハネス・フェルメールとかぶる・・

彼の作品からは、軸がぶれない、凛とした生き様を感じとれる

・・・ その辺のところが、ちゃらんぽらんな僕とはずいぶん違っている(笑)。

何が今の僕を活かしているのか

幼少のころのことは覚えてないが、

物心がついてからは、夢や希望というものはなかったし、今もない

生活に困らない程度のお金は必要だが、それ以上はいらない

名誉というものは、多少なりと頂いたことはあっても、僕には似合わない

人類愛は増しても、個人への愛は日々遠のいていく

なぜなのか、愛することはあっても愛されることは苦手だ

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何が今の僕を活かしているのか

平日は普通に仕事だが、それ以外の空いた時間はすべて創作に費やしている

夢や希望が創作をさせるのではなく、目の前に見える作品がそこにあるからだ

目の前に見えながら、達成するには途方もない時間を要する

それでも、数年以内にはあるレベルまで到達するものと思っている

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自分のために生きているのではなく、

今は亡き、自分を大切に育ててくれた者へ報いるためなのだろう・・

 

 

 

FBとこのブログのインサイトから・・

僕の作品が

世界の何処のエリア(国)から、より多く検索されているか?見られているか?

を、フェースブックとこのブログの(インサイト)から割り出してみた・・

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フォロアーの数を人口で割り、およその数値を基にしている

人口というより、ユーザー数で割るのが良いのだろうが、そこまでのデータがない

多い順に挙げていくと・・

フランス、イタリア、メキシコ、スペイン、日本、トルコ、イラン、ポルトガル、アルゼンチン、台湾、タイ、イギリス、アメリカ合衆国、カナダ、ドイツ、ポーランドなど・・

ただし、人口が1000万人以上の国でないと、分子数が少ないので、載せてません

多いのがラテン系のエリア、フランス、イタリア、スペイン・・

地中海周辺(アルジェリア、チュニジア、エジプトなど)も含む

また、メキシコなど中南米からのフォロアーも多いが、

ゲルマン系の人たち、北欧系の人たち、

倫理観の強いと思われる国々から、宗教色の強い国からは少ない

インドからも多いが、何といっても分母が13億であること、

ネットの普及がまだまだなことなどが理由で、

絶対数はそこそこにあるが、割合としては上位に来ない

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ここで気がかりなのが、本国(日本)でのフォロアーの割合が低いこと

お隣の韓国からはさらに少ない

香港からのフォロアーはあっても、

本国(中国)からは0に近い、遮断してるというネット事情があることだから・・

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使用言語別に並べてみると(これは、割合でなく絶対数)、

英語(英語+米語)、フランス語(アフリカではフランス語を公用語としている国も多い)、スペイン語(スペイン本国+スペイン語圏)、日本語、アラビア語、イタリア語、ドイツ語などの順になっている(参考:ハンガリー出身でパリに留学し、ドイツで仕事してる・・と言う人。こういう人は、母国語、フランス語はネイティブレベル、英語はビジネスレベル、ドイツ語は喋れる程度であると思われる。この場合、使用言語として表記するのは、母国語のハンガリー語、フランス語だけであり、誰でも使えるのが当然とする英語は表記しないし、統計値としては、カウントされてない。)

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ところで、この写真について・・

観る人によっては違和感があるかもしれない

モデルの体脂肪率が極端に低いこともあって、

あばら骨、筋肉の盛り上がりなどと一緒に、ふくよかなバストも写り込んでいる

僕は”普通じゃない”ので、この画像をとっても気に入っている。

Why do many photographers tend to be stoic?

なぜ、多くの写真家がストイックな傾向になるのか?

カラーフィルムが出てくる以前は、モノクロであることは当然なのですが、

展示会などでは、未だにモノクロ画像も多く存在する

(彩度、明度、色相という3要素の中の)彩度と色相を切り捨て、

明度だけで画像の”表情”を創ろうとする

そこには、二つの理由があると思っている

1つは、色を切り捨てることによって、明暗だけに絞り込もうとするストイックさにあり

もう一つは、色という要素を考慮するとなると、撮影は限りなく難しく、

また、編集段階においても”面倒”なことになるから・・

(言うまでもなく、木炭デッサンが美しいことと同様に、

モノクロ写真特有の美しさはある)

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この撮影では、スタイリストは使わず(予算的に使えない)、

モデルと私の二人で作品創りに臨んでいるが、

背景の屏風、着物、床の畳、モデルの口紅、マニキュアなど、

全ての色合いを考えることは非常に難しい

写真家なら誰でも知ってることですが、

目の前で見る”光景”と写り込むデータとでは、全く違う

ライティングされた中で、どう写り込むか?を想定しなくてはならない

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この画像は、彩度を少し抑えているが、それ以上の編集はしてない

かなり、原画に近い

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ちなみに、この画像をモノクロにすると、かなり退屈な写真になる

カメラの設定も、モノクロにしたことはないし、これからも、そうしようとは思わない

影がどう写り込むか?でライティングを決めるが、

明暗よりも色合いで撮っているような気がする

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”写真道”なるものを説く人はいるが、私にはよく分からない

写真は(従来の概念としての)写真ではなく、どこまでもアートであってほしい

美意識が写真を撮らせることは確かだが、哲学や倫理観が写真を撮らせるといことはない

ただ、写真の中に(撮った人の)人として踏み行うべき行動の筋道、人としてかくあるべきという理想、倫理観なるものが見え隠れすることはあっても・・。