アートの価値とは何か?/展覧会の作品選びのポイント/ローカルとグローバルの両立/アートから考えるダイバーシティ/日本文化を客観的に捉えよ/想像を超えるもの・・
ギャラリー
FBでセーフでInstaだとアウト

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こういうこと、最近よく起こってます。
伊与田 彩生 原展 ~全部ここから始まった~

伊与田 彩生 原展 ~全部ここから始まった~
4月12に日(金曜)~26日(金)
16:00~24:00
Tiny Cafe 仙川駅から徒歩7分
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ちなみに、私は初日の12日(金曜日)は
16:00から在廊してます。
屏風に花魁
写真と絵画──日本と欧州における「アート観」の違いについて

写真と絵画──日本と欧州における「アート観」の違いについて
日本において、写真と絵画はしばしば「別のジャンル」として明確に区別されている。美術展においても、「油絵・日本画」「写真展」といったように展示そのものがジャンルごとに分けられ、また教育や批評の場面でもそれらは異なる系統として扱われがちである。対して、欧州──特にアート市場や美術館文化の根付いたEU諸国では、写真と絵画を「別のジャンル」としてのみならず、共に「アート」として並列に捉え、同じ美術的価値の土俵に置く傾向がある。
こうした違いは、単なる文化の差異というよりも、それぞれの地域における美術史・教育・社会的価値観の蓄積に起因するものだと考えられる。本稿では、その背景を歴史的・文化的な視点から考察し、なぜ日本では写真と絵画が明確に区別されやすく、欧州ではより統合的なアートとして認識されるのかを論じていきたい。

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フォトモデルという職業
写真の歴史的位置づけの違い

写真の歴史的位置づけの違い
写真が発明されたのは19世紀半ば。ヨーロッパではダゲレオタイプ(銀板写真)から始まり、当初は科学的・記録的な手段としての利用が多かったが、やがて「光を使って描く新しい芸術」として一部の芸術家や批評家から受け入れられるようになった。
その中でも、例えばフランスの写真家ナダールは肖像写真を芸術表現として昇華させ、また英国ではピクトリアリズムと呼ばれる美術写真運動が19世紀末から始まっている。欧州では写真の登場当初から、「これは絵画とは異なるが、芸術たりうる」という議論が積極的に行われてきた。その議論の延長線上で、現代では写真は絵画・彫刻と同等の「美術ジャンルの一つ」として確立している。
一方、日本における写真の受容は少し事情が異なる。幕末に西洋から写真技術が導入され、明治以降は主に「記録・報道・科学的資料」の道具として定着した。明治時代の美術政策は、近代化を急ぐ政府のもとで、絵画や彫刻などの「高尚な」芸術に重点が置かれ、写真は芸術というより「工芸」や「技術職能」の一つとして見なされる傾向が強かった。
つまり、日本では写真=記録、絵画=芸術という二分法が近代以降に制度的・教育的に刷り込まれていったという歴史的背景がある。その流れは現在の美術教育や公的美術館の展示方針にも反映されており、写真を「芸術」として扱う場合でさえ、どこか“特別枠”のような扱いになってしまうことが多い。

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Traveler of Time Naked Truth
「手業」への信仰と芸術観の違い

「手業」への信仰と芸術観の違い
日本において「芸術=時間と手間をかけて作られたもの」という価値観が根強いことも、写真と絵画の分離を促す一因になっている。絵画は、画家が筆を持ち、構想し、時間をかけてキャンバスに表現する行為であるのに対し、写真は「カメラのシャッターを切るだけ」という印象を持たれやすい。
もちろん、実際の写真制作は、構図、光、被写体、ポストプロセスなど多くの判断と技術が必要であり、単なる「一瞬の記録」ではない。しかし、その創作過程が視覚的にわかりづらく、また「機械によって生まれるもの」として誤解されやすいため、日本においては「労力が見えにくい=芸術性が低い」という無意識の評価がつきまとう。
これに対し、ヨーロッパでは近代以降の芸術思想において、「手業の有無」よりも「コンセプト」や「表現の新しさ」が重視されるようになった。マルセル・デュシャンが便器をアートにしたように、「何を表現するか」「それが時代や社会とどう対峙しているか」が重要視される。こうした思想は現代アートの根底にあり、写真もその文脈の中で当然のように「芸術」として受け入れられる。
この「芸術の基準」の違いが、写真の扱われ方に大きく影響している。

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Traveler of Time Naked Truth
教育・制度・市場の構造の違い

教育・制度・市場の構造の違い
欧州、とりわけフランスやドイツ、オランダなどの国々では、美術大学やアートスクールにおいて写真は一貫して「アートの一分野」として位置づけられてきた。学生は絵画や彫刻と並行して写真表現を学び、それぞれのメディアの特性を活かしながら「現代美術」としての統合的な視野を身につける。
また、公立美術館やアートフェアにおいても、写真は絵画と同様に展示され、アートコレクターからも同等の関心が寄せられる。ヨーロッパでは古典写真のプリントや現代写真作品が美術品として市場に流通しており、写真はもはや「絵画に準じる」存在ではなく、「同じ地平」に立って評価されている。
一方、日本の美術大学では、写真はメディア系やデザイン系に位置づけられ、美術学部とはやや距離を置いて教育されることが多い。展示の現場でも、「写真展」と「美術展」は主催者、審査員、審美眼の文脈が異なり、交わる機会は少ない。結果として、写真家自身も「芸術として写真を撮る」という意識より、「写真家という専門職として技術を磨く」ことに重点を置く傾向がある。
このように、制度と教育の違いが、写真と絵画の間に“見えない壁”を作っているのだ。

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Traveler of Time Naked Truth
現代の日本における変化とその兆し

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現代の日本における変化とその兆し
とはいえ、近年の日本においても、写真に対する芸術的な評価は少しずつ高まりつつある。森山大道、荒木経惟、杉本博司といった世界的に認知された写真家がいることや、海外のギャラリーや美術館で日本人写真家の個展が開催されていることから、国内でもその存在が「アート」として再認識されつつある。
また、若手写真家の中には、現代美術との接続を意識し、コンセプトベースで作品を構築する者も増えてきた。写真が単なる「美しい風景」や「瞬間の記録」ではなく、「思考の可視化」「問いを立てる装置」として使われるようになってきたことは、大きな転換点と言える。
しかし、それでもなお、「写真=写真」「絵画=アート」という二元的な見方は、教育や文化施設の中に根強く残っている。写真を本質的に「芸術」として扱うには、教育制度の再構築、批評の充実、市場の成熟が不可欠である。

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