美は「構造化された自己表現」

美は外部から借りてくるものではなく、
自分という主体を世界へ投影する際の
一種の“構造化された自己表現”である。

作品は「自己の肖像」ではなく、
「自己が存在を編み直すプロセスそのもの」である。

美とは、事実ではなくインターフェースである。
そしてインターフェースは常に実験段階にある。

作品は「作者の表現」ではなく、
「作者という概念の一時的な構築物」である。

美とは、完成を拒否しながら継続する自己生成の手続きである。

自分である」とは、
他者からの記号、文化的コード、個人的な欲望、
そのすべてが同時に共存する場をつくることだ。

自分が自分であるための美のフォーマット

「自分が自分であるための美のフォーマット」とは、
自己が存在し続けるための根源的な形式であり、
その形式を通して世界に向けて“私は私である”という
存在の証明を行うための構造である。

肉体は哲学の器となる

色を纏う身体は、沈黙のうちに世界の秩序を再配置する。
その姿勢は、美の追求である以前に、
‘自分が何者であるか’ を世界へ問い返す姿勢である。

人間の身体は、ただそこにあることで世界を批評しうる。
その事実を色と姿勢で示した時、
肉体は哲学の器となる。

やり残したことを実現する課題と、外から与えられた希望

若い頃って、

死ぬのがえらく怖いと思ってた。

死んでしまえば意識はなくなるから

その後どうなろうといいじゃないか!って思うだろうけど

意識がないとはいえ、

焼かれるのは怖いよ、ほんとに。

痛みのことはさておき、

先に居なくなることの寂しさというのもある。

仲間で楽しくやってるときに

オレ、明日忙しいから先に帰るよ!って言いにくいし、

自分が帰った後に、自分が話題にされるのも気にかかる。

そうこうしてるうちに、

だらだらと時間過ぎ、終電が迫ると腰を上げる・・

自分は、60歳くらいまで生きているだろうな・・と想定しながら

それでも、無限に続く未来に向けて、

特に叶えたい夢や希望もなく、たんたんと生きてきたような気がする。

生きた証を残そうとか、そんな大それたことは考えたこともなく、

ただ、目立たないように生きられれば?とだけ思ってきた。

想定していた60歳をとっくに過ぎてしまった今となって、

やり残してきたことの多さに気付き始めた。

時間にも体力にも限りがあり、

何をして何をしないか?を決めることが難しい。

好きなだけ絵を描こうか!

写真の世界でも”決着”はついてない。

絵も写真も・・となると、どっちつかずになってしまう。

最近、政治が変わってきて・・

どうにもならないものから、

どうにかなるかもしれないものに

変わってきた。

・・これが民主主義かも?って、希望をもって見守るようになった。

自分がやり残したことを実現する課題と

外から与えられた希望とで

何とか、残りの時間を楽しめそうです。

年内に町田に引っ越します。

今いるマンションの壁が薄くて、

音どおりが良くて、

気疲れしてしまって・・

それで、公団に引っ越すことにしました。

撮影を予定されるモデルさん、

落ち着くまでは「撮影」は延期させてください。

少し広めで、スタジオにもなるスペースって

町田まで行かないと家賃的には無理があって

それで、駅からバスで10分という、ちょっと不便だけど、決めました。