
ランジェリーの女性を見ているようで、実は自分自身を見ている
若い頃、ランジェリー姿の女性モデルを見たとき、私はただ反射的に「美しい」と感じていた。
線のなめらかさ、肌の明るさ、計算されたポーズ。そこに深い意味を見出す余地はなく、感情は単純で、少し騒がしく、どこか一方通行だった。
けれど、年を重ねるにつれて、その「美しい」という感想の奥に、別の層があることに気づくようになった。
同じような写真を見ても、あるときは強さを感じ、あるときは危うさを感じる。
自信に満ちているようにも見えるし、誰かに承認されることを引き受けているようにも見える。
そして不思議なことに、その受け取り方は、相手ではなくその時の自分の状態に大きく左右されていた。
満たされているときには、ただの表現として眺められる。
疲れているときには、そこに救いのようなものを投影してしまう。
孤独なときには、距離のある親密さをそこに見ようとする。
つまり私は、彼女を見ていたようで、実は自分自身を見ていたのだと思う。
「何を感じたか」は、対象の真実ではない。
それは、こちら側の欲求や欠落、あるいは余裕が形をとって現れたものだ。
同じ一枚の写真が、日によって違う意味を帯びるのは、鏡の前に立つ人間が変わっているからだ。
そう気づいてから、私は「感じたこと」を急いで肯定も否定もしなくなった。
ただ、「今の自分は、これをこう受け取ったのだな」と、一歩引いて眺める。
ランジェリー姿のモデルが身をはだける瞬間。
その一瞬に浮かぶ感情は、彼女の物語ではなく、私自身の内側から立ち上がった物語だ。
そこにこそ、“想ったこと”の正体がある——
そう思えるようになったのは、経験を重ねたからこそかもしれない。
